院長 上川路一徳
     院長 上川路一徳

 

上川路一徳ご挨拶

 

上川路ホームページへお越し頂き有難うございます

 

 

 

 

私が鍼・灸・あん摩マッサージ指圧師の免許を取得したのは26歳の時。

そして、鍼の専門治療院として、開院したのはその2年後の28歳の時でございました。

 

鍼専門の治療院はほとんどなく、「鍼」が、「針」のイメージのために、怖いと考える方が多く、「専門でやって行くのは難しいのでは」と言われる中で、あえて鍼専門の治療院をやって行こうと決心致しましたのは、鍼の治療効果の可能性を信じていたからです。

 

さらに、治療院開業以前に、他の治療師から治療院を短い期間任され、鍼・灸・あん摩マッサージ併用の治療院を経験いたしましたが、そこでは殆どの患者さんが、あん摩マッサージを求められたのです。

 

そういう理由から、経営上はあん摩マッサージ併用の治療院の方が楽であろうと思いましたが、怠け者の私では安易にそちらに流れて行き、より治療効果の可能性のある「鍼の技術が伸びなくなるのではないか」と考え、自身の逃げ道を閉ざして、集中するように仕向けたのです。

 

そのような中で、様々な諸先輩の話や、そのころ見聞きした鍼治療の効果は、私が期待していたほどのものではございませんでした。

開院当初は「本当に治るのかな?」と、疑問の毎日でございました。

 

そんな時、東洋医学の歴史の偉大さを過剰に考えすぎていた自分に気が付き、すべての古い理論を一端そこにおき、鍼の原点に戻り、自分自身を実験台にして、さらに病に罹患したときには絶好のチャンスと思い、鍼刺激をした時の変化を素直に観察し、解剖学に基礎を置き、治療法の開発を続けてまいりました。

 

するとどうでしょう。

それまで対処できなかった様々な病気や症状に対して、素晴らしい結果を得ることができ、私の認識は大きく変化して行きました。

 

現代医学の解剖学や生理学的発想を基にして、治療を組み立てて、なるべく多くの病気や症状に対処できるように、これからも更に研究してまいりたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

の使 

 

 

若き鍼師達の育成と鍼の普及

 

 

 ||宣告そして困惑||


あれは父の転勤で、私の初めての転校先であった種子島の最北端、国上小学校での出来事だった。
小学校の6年生の最初の体育、私の大好きなソフトボールの授業の時のことだ。
センターを守っていた私の目の前に飛んできたソフトボールが、視野から消えてしまった。
そして、今度はバッターボックスで、ピッチャーの手元にあったときには、はっきりと見えていた
はずのボールが、目の前で消えてしまったのだ。
その時は「ぼやっとしていたからだ」と、気に留めることもなかった。
しかし、次のソフトボールの授業の時も、その次も、それ以来毎回のように、突然現れたり消えてしまう
ボールに大好きだった体育の時間が恐怖の時間と化してしまい、目の異常を
意識せざるを得なくなってしまった。

中学校2年でバレーボールが、そしてあの大きなバスケットボールでさえも、
視野から消えてしまうようになった。

動く物だけではない。
私が動くことによっても、消えてしまう現象が出始めたのだ。
ハードルや高飛びのバーを前に、勢いよく走って行くと、突然、視野から消えてしまい、
寸前のところで現れる。これは本当に恐怖である。
恐怖はそれだけのことだが、何度も失敗する私に対して、仲間の冷笑や、やじるような言葉は、
胸に突き刺さる。
視力検査では、矯正視力で、0.8~0.9あるのになぜ見えない?
失敗しても、自分自身でさえ理解の出来ない現象、言い訳一つ出来ない。

そして、こんな日常の事も。
昼間、階段の登りはコントラストがはっきりとしていて、問題なく登れるのだが、晴れている昼間の
日の当たっている階段を上から眺めて見ると、階段の段差の境が見えず、平坦に見えてしまう。
階段を難なく下りて行く仲間を横目にしながら、おっかなびっくり降りて行く情けない姿を、平然を装い、
悟られぬように降りてはいたが、何度恐怖を味わったことだろう。
中学2年頃から、文字を読む速度も遅くなり始めて、国語の時間は、小学1年生のような、
つっかえつっかえのたどたどしい読みに、恥ずかしさのあまり背中には冷や汗。

そして、17歳、高校3年の8月下旬のことだった。
理系のクラスにいた私が、出来れば触れたくなかった通信簿の裏に、書かれていた一つの言葉。
中学までは全く異常のなかった「色弱」と、書かれていた文字が、大学受験を前にしてさすがに気になり、
意を決して大学病院へ検査に行くことにした。
「珍しいタイプだなぁー、写真を撮らせてもらいます。」
それから、「ちょっと研修生にも見せてほしい」と言いながら、周りにいた3・4人のインターン生にも、
機械の中をのぞくように指示していた担当医に、
「君の病気は、網膜色素変性症という遺伝性疾患で、いずれ見えなくなるから、無理な勉強は症状の悪化を早めてしまうので、止めたほうが良いでしょう」と、宣告されたのです。

説明のつかない多くの現象のために、様々な点で劣っている自分を、情けなく思っては
自己嫌悪に陥っていた日々。
そのような状況の私には、大学病院の先生の宣告は、正に救いの言葉だったのです。

しかし、ほっとしたのは束の間。
「こんな状態でこの先どのような道に進むことが出来るというのだろうか?」
困惑している私に対して、アドバイス一つ掛けられない周囲の大人達。
そんな大人達に対する不信感や嫌悪感は、相談するごとに強くなっていった。
しかし困惑の中でも、私の心に「どんな若者の悩みにも、必ず答えられる人になるのだ!」と言う決意を
芽生えさせた。


||Mujina lives there.||

20代になると、更に症状は悪化し、視力も相当に落ち、登る時の段差でさえも、分かり辛くなっていた。

上京後、そんな中、仲間と共に富士山に登ることになった。
9月中旬の山にもかかわらず、富士山は快晴だった。
しかし、私にとっては、日当たりの良すぎる登山道の石ころだらけの道は、斜面と
見境がつかず、神経戦の様相。
かなり気をつけてはいたのだが、登山道を外れて、急斜面に上りかけてしまい、小岩を蹴落としてしまった。
登る前に、小さな岩でも転がり落ちていくと、それをきっかけにして落石事故になることがあるので、
ちょっとした岩でも気をつけるように注意されていた。
そして、「もし蹴落とした時には落!と言え」と言われていた。
かなり気をつけてはいたのだが、登山道の道を外れた私は、斜面に「急な道だな」と思いながらも、それに
気がつかず、少し登ったところでバランスを崩してしまい、小さな岩をつい蹴落としてしまった。
その瞬間「やばい!」そして、大きな声で「落!」と叫んだ。
転がった小岩は30cmぐらいだったが、蹴落とした位置が登山道の直ぐのところであったために
落石事故にはならずにすんだ。「ほっとした!」
友の後を何とか付いて歩き、やっと登頂することが出来た。
そんな状況でも、全く疲れることはなかった。

さて、先ほどまで晴れ渡っていた空は、いつの間にか曇ってしまい、直ぐ近くの景色も、見えなくなっていた。
すぐ隣にいた友に、「残念だね、曇って何にも見えなくなってしまったな」と、話しかけた。
その友は「お前、何を言っているんだ!」
伊豆七島も全て見えているし、9月の半ばでこんな快晴の日などないぞ!」と、答えが返ってきた。
「えぇー!」その友の顔を見て驚いた。
日に照らされていた友の顔、何と、目も鼻も口もない。白っぽくのっぺらぼうなのだ。
その瞬間、中学生の時に英語に出てきた「狢(むじな)」の怪談話が脳裏に思い浮かんだ。
前を行く女の顔が、目も鼻も口も無い、のっぺらぼうの顔のあの話、そう「Mujina lives there.」である。
そして直ぐ、左にいた別の仲間の顔もまたやっぱりのっぺらぼうなのだ。
驚いて周りを見渡すと、暗いところは黒っぽく、明るく日に照らされているところは白っぽく、
単純なモノトーンの世界になっていた。物の形はほとんど分からない。
いつの間にか、明るさのみで、全く見えなくなってしまっていたのだ。

私の目の遺伝病である網膜色素変性症(網膜の血管が、普通の人より細い)が、薄い空気の影響を受け
酸素欠乏に陥ってしまい、見えなくなってしまっていたのだ。
もとより、いつか失明することは覚悟していたので、見えなくなることに対する恐怖感はほとんどなかったが、
改めて「このままこの状態が続いてしまうのだろうか?」と、何とも言われぬ気持ちで立ちすくんでいた。

「そろそろ下山の時刻、友に状況を話し、手をつなぎおっかなびっくりの下山が始まった。
「怖がってもしょうがない!」と覚悟を決めて勢いよく歩き出したとたん、突然段差にがくんとし腰を抜かし、
情けないが恐怖感との戦いで、3時間半ぐらいだっただろうか、やっと5合目まで降りることが出来た。
ほっとした。

しかし、10分たっても15分たっても症状は変わらない。
「このまま、盲目の人になってしまうのかな!」と思っていたが、およそ1時間ほどした頃から、おっと
少しずつ物の形が現れてきた。
初めての、7時間ほどの盲目の世界、わずかな視力ではあるが見えるようになりやはりほっとした。


||鍼との出会い||

半年後の僅かしか見えないままでの勝ち目のない受験、そして、そのおよそ1年後には、
全く文字を読むことが出来なくなってしまった。
更に症状が進み、歩くことにも支障をきたすようになってきたので、住んでいた東京都中野区の
区役所の福祉課に相談に行った。
目の悪い人の職業についての情報を得るためである。
職種は10種類ほどあっただろうか、はっきり記憶していないが、ピアノ調律師と、鍼師のいずれかにしようと
考えたことを覚えている。
調律師に対するイメージは、小学校で学んでいた頃、小児麻痺だったのか、片足を引きずっていた
叔父さんが時折ピアノ調律に来て黙々と1人で調律をしていた姿が思い浮かんだ。
そして、あの時、なんとなく感じた暗いイメージが蘇り、調律師になることは敬遠してしまった

鍼については、治療をするものらしいと言う程度で、全くそれに対する知識はなかった。
「しょうがないな、これしかないのか!」と、思いつつ、紹介された職業以外に、情けないことだが、他に新しい
職種を思い及ばず、鍼師になることをやむなく決意した。


||格闘||

さて、帰郷し地元の鹿児島の盲学校の鍼科に、入学することになった。
その1ヶ月後の5月の連休の谷間の授業の時のことだった。
鹿児島大学産婦人科の講師で、大学院生時代から、盲学校で教鞭を執っておられた家村先生の講義が、私のやる気に火を付けてくれたのである。
近年、やっと言われ始めた「“ガン”を撲滅しようとする治療ではなく、“ガン”と共存して生きる治療を、鍼で出来るのではないか?」と言う、先駆的(33年前)な考え方に、感動したことを、昨日のように覚えている。

「鍼には、そんな素晴らしい可能性があるのか!」と
その時から、読むことのほとんど出来ない点字との挌闘が始まった。
それまで、7ヶ月でやっと文庫本にして、1時間におよそ2ページ半程度、単純に文字を追うだけで、全く文章の意味など頭に入っては来ない私の点字読み。
「それにしても、少しぐらいは記憶できても良いはずなのに!」と、あまりの記憶の悪さに、またまた「本当に馬鹿じゃないのか!」と、自己嫌悪に陥ったものだ。
「こうなったらしょうがない、「もう読み続ける以外ないな!」と覚悟を決めて、無理に記憶することは止めて、
感覚訓練のために来る日も来る日も、午前3時までひたすら読み続けた。
指先がしびれて読めなくなってしまい、試験の頃は友達に教科書を録音してもらって勉強をした。
すると今度は、せっかく読んでくれる友達には悪いのだが、へたくそな音読に、眠たくなってしまう始末。
およそ、点字を学び始めて3年弱たった頃だった。
夏休みの勉強中のこと、ふと、気分よく勉強が進んでいたことに気が付いた。
「あっ、スムーズに頭に入ってきている!」と、いつの間にかまともな勉強になっていたことに気が付いた。
あの時の、気持ちのよかったことは、何とも言えなかったことを覚えている。
「おれっ、馬鹿じゃなかったぁ!」
そして、ちょっと頑張ってきた自分を褒めてやりたくなった。
ひたすら同じ文章を“訓練のため”とは言え、いくら読んでも指先から意味が頭に入ってこない読みを続けて
およそ2年半、何度も何度も繰り返し読み続けていたために、いつの間にかその内容も記憶出来ていた。

盲学校の鍼灸学科を卒業後、病院へ就職した。
学校の鍼科の先生方には、「治療師になるのなら病院よりも治療院がよい」と言われていたが、
私はその様に思えなかった。
治療法を学ぼうとする仲間が多い中、私はあくまでも“診断法”にこだわったのだ。
時代もあって、高度な超音波診断や、MRIなどのような、診断技術の進歩した現在とは、比べものに
ならないほどの病院での検査レベルではあったが、一応レントゲンや、造影剤を使っての医者の診断した患者さんを、
就職して直ぐに、鍼治療は出来ないまでも、リハビリやマッサージで治療することが出来、患者さん達との会話で
医学書には書いてない、実際の病気に関する詳しい症状について教えてもらえた。
「仕事がきつくて、給料が安い」と、不平不満を言っては、物療室のメンバーが辞めてしまったりする中で、
1日中リハビリマッサージ
多い日には40人を超えることもあったが1日平均して20~25人ほどの患者さん達を
週休1日で治療し続けた。

延べ人数にして、およそ7千人位、実体験の勉強が出来ることが嬉しくて、安月給も疲れも全く感じることもなく、ひたすら患者さん達をいかに治すか
工夫に工夫を重ねて、目標のリハビリの基礎の内容を、マスターするために学び続けた。
納得できるレベルまでには、最低でも数年掛かるだろうと思っていたが、最短の1年で自分の目標のレベルはマスターできたので、27歳で上京した。


||使命||

今度は、本格的に鍼の治療法の研究の始まりだ。
鍼の免許取得者の技術向上の為に、設立された学校に1年間所属し、
それ以外のいくつかの治療法も学んだ。
そして、実業団との契約の関係で、全く知らぬ土地、所沢の小手指と言うところで28歳で
開業することになった。

それまで学んできた過去の経験的な考え方の治療法では、どうしても納得のいく治療効果を得ることが出来なかったために、それまで学んできた
ほとんど全ての治療法を封じて、原点に立ち返り、新たに理論を組み立てた。
そして、治療費も度外視し、自分自身の体を実験台にして、治療法の開発に取り組んだ。
そこで得られた結果を基にして、実際の患者さん達の治療に応用していった。
するとどうだろう、何とそれまでほとんど効果のなかった様々な症状に、次々に変化が現れて、我が目を疑うような治療結果を得ることが出来たのだ。
そして、その治療の効果に、治療をしているはずの私自身が、驚かされることも度々あった。

開業以来28年間、足りない部分がまだまだあるのは良く分かっているつもりではいるが、やっと若い経験の少ない鍼師たちに、伝えられる形にやっとなってきた。
治療技術を、伝えることは難しいこととされてきたが、この技術であれば鍼を一通り学んで来た者であれば、誰でも確実に習得することが出来るはずである。

それにしても、鍼治療の応用範囲の広さには、驚くばかりだ。
何カ所も病院をはしごしていた患者さん達が、1~2カ所の病院のみで済むようになったり、ほとんど通院することも
なくなったり、さらに服用していた薬の量が半減するなど、もし、この鍼治療を普及することが出来れば、
将来このままの保険体制を継続して行くことが危ぶまれている
日本の健康保険制度を強力にサポートできるのではないかと、真剣に考えるようになった。
先ずは、若き鍼師達の育成と、鍼の普及が当面の目標だ。